かしこくたのしく

20代 横浜市民 男性の日常と独り言

無宗教一般人が考える:罪の意識と生きる意味

僕は無宗教の一般人だ。特定の信仰もなく、ただ日々を生きている。

それでも思えば、昔からずっと罪の意識を抱えて生きてきた気がする。みんなもこの同じ感覚は無宗教でもあると思う。

学生の頃、成績が振るわず親に怒られたとき。勉強しても思うように成果が出ず、無力さに打ちのめされたとき。その感情が僕の心に深く根を下ろし、成長とともに大きくなっていった。

その頃からamazarashiのようなネガティブなバンドの曲をよく聴くようになった。そんな自分をどこか哀れに思う気持ちもあったけれど、それでも音楽に救われる感覚があった。しかし、今となっては当時の罪の意識の種が大きく成長し、まるで心を蝕むように僕の中に居座っている。

会社で上司に怒られたとき。どれだけ頑張っても結果が出せないとき。昔感じた無力さとは比べ物にならないほどの重圧が僕を襲う。

子どもの頃は、大人になればもっと自由に生きられると信じていた。でも、所詮僕は僕だった。好きな食べ物は変わらないし、苦手なものも変わらない。たまたま環境の変化で克服することがあったとしても、それはほんの奇跡のような出来事に過ぎない。

仕事に行かなきゃいけない朝、どうしても布団から出られない日があった。登ってくる朝日が目にしみるほど絶望的な気持ちになり、そんな日についに心療内科を訪れた。不安障害と診断されたが、どこか他人事のようにしか感じられなかった。

漠然とした不安は人それぞれ違うかもしれない。けれど、その根本には共通する「恐れ」があるのではないかと思う。人生という長いマラソンの中で、いつ転ぶのかという怖さ。その恐怖に向き合える人もいれば、気にせず前へ進める人もいる。そういう人がいわゆる成功者で、ポジティブな人なのかもしれない。

でも僕は違った。小さな石につまずいたことをいつまでも引きずり、後悔と罪の意識を抱えたまま歩いている。

これからどう生きていけばいいのか、正直わからない。20代という若さでここまで人生に悩んでしまっている自分が、この先の長いマラソンを完走できる気がしない。いつか、この罪の意識に押しつぶされて、ふっと消えてしまうんじゃないか。そんな考えがよぎることもある。

でも、そんな僕にも今支えてくれる人がいる。血のつながりはなくても、小さい頃から育ててくれた人がいる。僕が抱えてきた罪の意識に比べれば、小さな存在に思えるかもしれない。でも、それでも僕にとってはかけがえのない存在だ。

自分を応援してくれる人がいる。その少ないけれど大切な人たちへの唯一の恩返しは、生き続けることしかないのかもしれない。

だから、今日もボロボロになりながら職場へ向かおうと思う。